楽器、書道、Ctrl-Z
楽器が好きです。
音楽が好きです。
字は下手です。
楽器も下手かもしれません。
料理も、やり始めたら好きですが、そこまで好きでもないです。
サウンドメイクというのは、料理だと思います。
- 火が通っていて
- 塩気が強すぎず、弱過ぎず
- 甘すぎず、あっさりしすぎず
- 酸味が強過ぎず、弱過ぎず
- 最後まで飽きさせない味覚の変化を与える
時間経過で鑑賞する物語としての音楽は、すなわち料理、グルメだと言えると思います。
ところで。
Ctrl-Zというキーボードショートカットがあります。「元に戻す」。覆水を盆に返すというわけです。
現実世界では、元に戻りません。何ひとつ、元には戻りません。取り返しというのは、基本的につかないモンです。
いっぽう、デジ絵はCtrl-Zができます。
学生時代にアナログ絵(鉛筆)ばかりやっていて、方法論も何もあったものではない落書きが好きだったんですが、進学した先の知人がCtrl-Zで線画のベストを攻めていて、衝撃を受けました。
「元に戻し」て、いいんだ。と。
彼は納得のいく線を自分の手首が描き出すまで、Ctrl-Zを繰り返し押していました。
自分の信奉してきたモノは何だったのか?という思いがありました。
「元に戻す」によって形作られている、偉大なモノは沢山あると思います。しかし、自己表現としてのそれを「元に戻す」のは、自分は嫌でした。
なので、今でもギターは下手糞ですし、字も下手糞ですが、自分の名前はスタンプではなく手書きで書きますし、下手糞なりにギターを楽しんで弾いています。
演奏は、書だと思っています。
とめ、はね、払い。永字八法。
演奏は美であるべきではありますが、自己表現が美そのものとは限らない。時に美ではないこともある。そういうものだと思っています。
だから「美になるまでやり直す」ことはしません。今までも、これからも。そういうのは、シーケンサーがやればいいからです。
物語に負けた話
物語が好きです。
物語、好きですか?私は、好きです。
物語は、美だと思います。読者を飽きさせず、最後まで時間をからめ取って離さない。感情を揺さぶり、共感させ、ひとときの夢を見せる。
もし、そんな「物語」が、現実にあったら。ロマンチックってやつですね。
「美しい終わり方」、美に尽くす、そういうのっていいと思うんですよ。
本質的にお猿さんであり、増えること、栄えることしか考えない生き物が、美しい物語を生きる。それは、素敵なことだと思います。
長い長い腐れ縁に終止符を打って、ある男女が一緒になる。結構なことじゃないですか。美しい、物語ですよ。
虚構ではないということを除けば、ね。
自分は美を崇拝しています。美を保つことは文明的であり、美はより美であるように磨かれるべきだろう、と思っています。
だから、物語と自分の本能を天秤にかけたとき、自分の本能が勝つことは無かったわけです。それは自明でした。あらためて、語るまでもなかったわけです。
それが本当かどうかなんて知りませんよ。誰かがうまく断る言い訳として考えた、よくできた作り話だったかもしれません。
しかし、自分の心は折れました。美しすぎる、生ける物語が目の前に現れたので。
30歳も過ぎてしばらくの自分の心は、久々に激しく揺さぶられましたね。今でこそ、客観的にこうして文章にすることができますけれども。
空想の物語が好きです。とっぴで、まず起こりえないような架空の物語が好きです。
それは美です。
美について
美とは何でしょうか。
すなわち価値だと思っています。マネーを支払う、時間を費すに値するもの。
それは、形状であったり、メロディであったり、サウンドであったり。シナリオであったりします。
よく整えられた美は工業化され、量産され、流通し、世にあふれます。日本国には、美があふれ、ありふれています。
自分の半生をふりかえってみると、やはり美を他者(人間そのもの)から得ようとしてもがき、失敗を繰り返してきたように思います。
美に対する尺度が他人と違いすぎるんでしょうね。
こんな癖の強い自分ですが、とかく美に対する嗅覚は自分で言うのもナンですが、磨いただけのことはあると思っています。
ゴミ溜めからお宝を掘り出すのが大好きです。
自分にとって、バクチは勝率が100%に近ければ近いほどよいです。字だけ見たら「そりゃそうだろ」と思うでしょうが、これはつまり投資というバクチのたとえ話です。
美で彩られたアイテムは、たいてい高く売れます。元が取れることが多い。均整がとれて、垢抜けており、「ふさわしさ」を感じさせる。その独特の雰囲気が、同じ人類に共通して「価値」を見せる。不思議じゃないですか?
だから、パッと見てガラクタなら、それはガラクタだし。パッと見てお宝なら、それはお宝なんですよ。
で、自分は自分がお宝だと認定する美を他人へ流通させ、喜ばせたい。お金儲けはそりゃしたいけど、それよりも「自分が『美とは、いかなることか』ということをわかっている」を肯定する作業をやりたいんですよね。
この「美に浸る」というやつは、本能的充足、他人からの承認よりもずっと深く自分を捉えて離さないです。なんだろうな。なんか、自分の人生の目的が「美の探求」としていつしか設定されたように思います。
とにかく、人間は物事に美を見るし、美を見なければ対価(マネー)を支払わない。
つまりマネーとは美に対する対価なんじゃないか。
そんなことを考えています。
リセットマン十八号
わたしには癖があります。
それは、ほぼ一定周期でネットの交友を全部リセットし、ゼロからやり直す、ということです。
なかなかの悪癖だとは思っていますが、「友達はどうせまたできるし、作り直せばいい」というのを、なんとなくわかってしまっているんでしょうねきっと。
そんな言い方をすると、いま現在仲良くしていただいている方々からお叱りをちょうだいしそうな気がしないでもないですが、事実なので仕方ない。
自分は「友達をすぐに作ることができる」という才能(?)があります。
なんとなく「好かれる語り方、接し方」というものを本能的にわかってる感じがします。
なので、相手の放射しているシグナルにあわせて、それに適したピースを投げ返してあげることにより、自分の意図する方向に相手を誘導できている気がします。本当のところは、どうだか知りませんけど。
で、リセット癖です。
昔から「あなたは優しい人だ」と、親からも、親でない人からもよく言われて居るんですが、違います。
私は、優しいのではなく、丁寧なだけなんです。たぶんね。
優しくないので、平気で裏切るし、親しい知人の前から急に居なくなったりします。
なんか、捨てたくなるんですよね。人間関係を。ダンシャリっていうか。こう、無名の人になりたくなる。
自分を識別してほしくないという想いが高まり、ある限界を越えると。パーンと。破裂するわけです。「わたしを知っていて欲しくない」というのが、なぜか想いとしてあるんです。理由はわかりませんが。
遠い昔、学生時代にですね。辛いことがあって、劇場型犯罪じゃないですけど、盛大に「ネット上の自分のお葬式」を、やらかしたんですよ。ブログで。いかにもそれっぽい演出を最大限に工夫までして。
それをやられた知人は、ショックだったと思いますよきっと。悪いことをしたなあ、とは思っています。でも、そのことで自分自身を責める気持ちは、沸いてこないんですよね。不思議なことに。
自分は、両親が出来た人だったためか、なんか自己肯定感がずっと高いまま生きています。高いままなので、鬱病になった時もそれと分からずに。「なんか調子悪いな、動けないな」くらいしか思いませんでした。
ネットの文章書きの間では「自己肯定感の低さに思い悩む」みたいなのが流行ったり廃れたりを繰り返してますが、そんな中でも自分の自己肯定感はずっと高いままです。
だからなんですかねえ。異性とはうまくいかない。
だいたい歳の離れた相手のほうから寄ってきて、勝手に幻滅して相手が怒って去っていく。
自分は「よいこと」しかしてないつもりだから、プライドが高くて、「よいこと」を否定されたことに怒り、相手を嫌いになる。それの繰り返しです。
自分の中に通っている鏡のようなモノに照らして、それに基いて「正しい」ことをすれば自動的に幸福になり、背くことをすれば自動的に嫌な気分になる。
自分の世界認識はそんな感じです。
異性とはうまくいきませんが、自己肯定感が高いので屁とも思っていません。「つがいになれなければ人ではない」とは思いませんし。むしろ自分を認めてくれない相手が劣等なのだ、くらい思っていますよ。ひどいですね。
自分は「美」を調査し、蒐集するために生きていると思っています。